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37.「邂逅 3」   2010年9月1日

 父は私の名前を始め政直と思ったそうですが、15歳上の長兄の直政が良いという意見を受けて決まったと聞いています。詳しい経緯は分かりませんが、私は今の名前が気に入っているので兄に感謝です。そして当然、両親には畏敬の念と感謝、尊敬があります。
 物心ついてから私の地元、八戸南部藩二代藩主の名と同じと知り、成人して全国を旅する中で同名の殿様が松江、彦根など各地に居ることに気付きました。名前は空間質を現わしますので何か相似するものがあるのかと思いつつおりました。又、生まれるときは親、名前も自分で決めてくるとかというお話も聞いています。

 この夏、八戸への途中、初めて九戸城跡を訪れました。二戸市の中心街にある城跡は小高い丘の平山城です。石垣が残るだけで草が生い茂った空間は、国の指定史跡として整備がされていますが、いまだ調査発掘がすすめられている様子です。
 何もない開けた空間ですがなぜかもの悲しさが感じられます。本丸跡であわ歌を歌いましたがはじめの重さが段々明るく軽くなった様に感じました。戻る途中に案内所で資料を見て、かつて秀吉の全国統一の時に奥州再仕置として九戸征伐がなされたと知りました。       

 九戸の乱は南部藩の世継ぎ騒動に端を発したもので1591年九戸政実が挙兵します。結果的に秀吉の再仕置の軍勢6万と九戸籠城軍5千人が対峙し、最後は偽りの和睦で開城した後、城内の者は撫切りされたと言います。そして政実以下7人の重臣も豊臣秀次に斬首されています。
 
 私はあまり歴史に通じていませんでしたので、南部藩の事をあたってみました。するとなんと政直の名もありました。そして、九戸の乱に絡んだ南部26代当主南部信直の家督相続に関して以下の事が記されてあります。
 「信直は天文15年(1546年)3月1日、南部家の第22代当主・南部政康の次男・石川高信の庶長子として岩手郡一方井で生まれる。はじめ従兄弟である南部氏第24代当主・南部晴政に男子が無かったため、その娘を正室として養嗣子として迎えられた。しかし元亀元年(1570年)、晴政に実子・南部晴継が誕生すると、次第に晴政から疎まれるようになり、本人も身の危険を感じていたのか、天正4年(1576年)に正室が早世すると養嗣子の座を辞退し、田子城に引き籠もった。天正10年(1582年)、晴政が死んで晴継が第25代当主を継承した。しかし同年、晴継は謎の暴漢集団によって暗殺されている。これには信直の暗殺説も囁かれている。更に近年では信直によって内戦が引き起こされた結果、晴政親子が攻め滅ぼされたという説も浮上しているが、真偽のほどは不明である。晴継の後継として一族の九戸政実の弟・実親を推す意見もあったが、南長義や北信愛から支持された信直が、南部氏第26代当主を継承することとなった。このため九戸政実は遺恨を抱き、家中は不穏な状態であった。」

 そして九戸の乱が起き、信直が実権を掌握し子の利直が27代当主、盛岡南部藩初代藩主になります。
 八戸南部藩初代藩主は南部直房ですが、直房、直政、政直に以下の紹介があります。

 南部 直房(なんぶ なおふさ、中里数馬、寛永5年(1628年) - 寛文8年8月24日(1668年9月30日))は陸奥国八戸藩の初代藩主。盛岡藩初代藩主南部利直の七男として生まれる。母は仙壽院。官位は従五位下、左衛門佐。寛文4年(1664年)、兄で盛岡藩2代藩主南部重直が跡継ぎを決めないまま死去する。このため、盛岡南部家ではお家断絶及び幕府による領地没収の心配がされた。 幕府の命により、南部重直の弟、七戸隼人(重信)と中里数馬(直房)は江戸に上る。そして幕府より裁定を受けた。その内容は、盛岡藩10万石を分け、8万石を七戸隼人(重信)に与えて盛岡藩を存続させ、2万石を中里数馬(直房)に与えて八戸藩初代藩主とするというものであった。寛文8年(1668年)、41歳にて没する。死因は、逆恨みをした盛岡藩の陰謀による暗殺であったが、取り潰しを避けるために表向き病死とされた。後を長男の南部直政が継いだ。

 南部 直政(なんぶ なおまさ、寛文元年5月6日(1661年6月2日) - 元禄12年3月16日(1699年4月15日))は陸奥国八戸藩の2代藩主。初代藩主南部直房の長男として生まれる。生母は霊松院。官位は従五位下、遠江守。幼名は武太夫。寛文8年(1668年)、父の死により家督を相続。元禄元年(1688年)から翌2年(1689年)まで側用人を勤めている。元禄12年(1699年)死去。後を養子の南部通信が継いだ。正室は南部行信の娘。娘(朽木周綱正室)、娘(南部勝信正室)がある。寛文12年(1672年)、盛岡藩との領境を確定させ、元禄8年(1695年)には初めて領内の人口調査を行う。詩文集「新編文林全集」を編纂するなど、学識も高かった。しかし延宝年間にはいわゆる「やませ」による不作が重なったことが原因で早くも藩財政が苦しい状況に追い込まれた。直政の代には、参勤交代のお供を命じられた家中武士の負担を軽くする目的で「舫(もやい)制度」が始められた。これは家中武士に金銭等を拠出させ、必要に応じて支給されるものである。

 南部 政直(なんぶ まさなお、慶長4年(1599年) - 寛永元年10月23日(1624年12月3日))は、南部藩初代藩主南部利直の次男(庶子)。母は家老石井伊賀守直弥(なおみち、甲州譜代重臣、2,500石)の妹の岩(閑、楽女、香林院)。彦九郎。元和6年(1620年)頃元服し、政直と名乗る。福岡城(もとの九戸城)に生まれる。慶長18年(1613年)10月花巻城代(2万石)となり、花巻城を改築した。寛永元年、江戸へ向かう藩主一行が花巻城に宿泊をして酒宴を催した。この時に、岩崎城代柏山伊勢守明助と政直が相次いで急死した。死因は、白磁徳利の酒に毒が入っていた為である。かねてより、南部氏一族は柏山明助が伊達政宗と内通しているのではないかと疑いを持っており、花巻城にて毒殺をすることを画策した。藩主・南部利直は、花巻城に柏山を突然呼び出し、伺候した柏山に利直は、御前での盃頂戴の儀式を伝えた。訝しく思いながらも謹んで賜る旨を言上したので、利直は非情ではあるが、まずは政直に盃を飲むようにいい、政直はわかっていたがこれを口にし、その盃を柏山に回した。

 何とも壮絶な権力闘争が血族の中で繰り広げられていた様子が伺い知れます。九戸の乱の8年後、殺戮のあった九戸城で生まれた政直は親の命令で毒杯をあおり25歳で死にます。そして直政は父を暗殺されていて、7歳の時に家督を継いでいました。同族、兄弟間でのこの様な争いは当時は日常茶飯事だったのでしょうか?はたまたこの南部家の特別な事だったのでしょうか?親の命で死を選ぶ、はたまた幼少で藩主となる、渦中で如何なる選択をし、取り巻く人間関係、果たしてその心情は如何程であったのでしょうか。直政は弱小藩の外様では異例の将軍様の側用人を務め譜代として役目を果たしますが2年ほどで病気の為、役を辞しています。

 九戸城跡で感じた裏哀しさはその地のそんな人間模様が背景にあったのかもしれません。

 地は時間の経過の中で情報を蓄積します。血は遺伝子の継続の中で情報を継承しています。自然は営みの中で後形も無く露と消してしまうのですが、果たして水に流され浄化されているのでしょうか?多くの怨恨、不安、恐怖、悲惨、苦悩、苦痛等の無形の情報伝達がなされて、その上に渾沌渦巻く今の世界は作りあげられているのでしょう。暗く、重く、冷たい世界から明るく、軽く、温かい世界への変換を願いたいものです。
 
 地、血を祓い清めることが、天からのエネルギーを頂くためには必要なことと思います。地、血、知の穢れの原因が人であったとしたらその当事者、あるいは縁者がその役を受けて、少しでも浄化することで天地を繋ぐ役割を果たして行くことなのでしょう。多分、人は皆等しくその因縁を負っているのではないでしょうか。天地人への道。
 色々な異常気象が起き、天変地異の可能性が言われています。そろそろ大変換点が差し迫っている様です。人がする改心もいよいよもうすぐ本番かな?
 
 今回は私の名と出身地にまつわる歴史の中で、諸々の因縁に少し驚きを抱いたのでした。

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仙台天命塾長

Author:仙台天命塾長
 大久保直政
http://genkiup.net/

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