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132「開闢の旅2」2011,12,28

 次の目的地は大郷町の支倉常長メモリアルパークです。今日の初めに訪れた円福寺同様に、常長のお墓があります。駐車場から5分ほど散策路を登ります。陽が大分,西に傾き夕暮れ間近です。早速お墓を囲んであわ歌を歌いましたがその時のお言葉です。

 「この地の北にありたる大きなる宝は、この地をいきいき生き続け、大きなるこの宇宙と供なるなり。これ汚したる永き年月、これよりは皆々立ちて、その真を発し行くなり。伝えて知らせて、変えて行きて真へ参らせ。ふつなる身はお力添え申す。」
 その時に中山さんが書かれたものがあります。
 「十一人の行方は これよりの光で明らかにいたす。皆々に伝えられよこの光を。」
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 支倉常長メモリアルパークの大郷町のHPには以下のことが記されてあります。
 「支倉常長は慶長18年(1613年)伊達政宗の命をうけ、サン・ファン・ヴァウティスタ号という木造船にて、メキシコのアカプルコ経由でローマへと渡り、ローマ法皇に謁見しました。誰も成しえなかった太平洋・大西洋の二大洋を横断した男として、現代であれば希代のヒーローであろう支倉常長は、その過酷な7年の歳月を費やした旅から帰国した時、幕府の政策は鎖国そしてキリシタン禁教となっておりました。ましてや藩主伊達政宗の命は海外への軍事協力との説もあり、功臣ともいうべきこの支倉常長は事実上歴史から抹消されることになったのでした。
 現在、支倉常長の墓といわれるものは宮城県内に3ヵ所存在します。仙台市北山にある光明寺説。支倉常長の生まれ故郷とも言える川崎町支倉地区の円福寺説。そしてこの大郷町説の3つです。様々な憶測のもと、これらの歴史上の史実から大郷町の隠棲説が有力視されています。」

 常長の消息も帰国後、多くの資料は抹消されて定かでありませんでしたが、400年の封印が解ける時が来ているのかもしれません。
 常長が渡欧する2年前1611年12月2日に慶長の大地震、大津波があり伊達藩では数千名の死者があり甚大な被害を受けています。今年から丁度400年前です。その翌年1612年7月9日に通商交渉を目的に幕府の命を受けて浦賀から180名を伴いサン・セバスチャン号でスペイン、ローマを目指すも暴風雨で座礁して失敗します。しかし翌年1613年10月28日に石巻で半年で造船した、サンファン・バウテスタ号で石巻の月の浦から渡欧します。
 キリスト教との関係も含めて、震災被害も癒えぬ中で伊達正宗の意図したものは何だったのか。結果的に交渉はまとまらず、禁教令で隠棲させられた常長の無念さは果たしていかばかりであったのか。お言葉にあった「11人の行方」とは、多分、常長が同行した配下のものを欧州に残して帰ってきているのではないでしょうか。
 常長の居城のあった支倉には先に触れたように新羅の民も入植しており、文禄慶長の役では朝鮮出兵に従軍していた。既に景教も伝わっていたと思われ、宣教師の接触があったと言え何故にあれほどの使命を果たし得たのか・・。
円福寺のお墓には爬虫類の石碑が鎮座していましたが、どう見てもレプティリアンで、明らかにキリスト教との関係を伺わせるものです(107光りと闇2011,8,22参照下さい)。
 メモリアルパークを以前訪れた時にお墓に向かう道で珍しい生き物に遭遇しましたが、爬虫類、小さなトカゲが現れて逃げもせずに写真に納まっていました。えっ、なぜという感じでしたが、自分の存在を知らしめ、墓守をしているのかと思いました。常長はこの大郷の地で30年もの間隠棲し84歳で亡くなったようです。
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 お言葉の最後の「ふつなる身はお力添え申す」とありますが、ふつなる身とは布都御魂(ふつのみたま)、あるいは経津主神(ふつぬしのかみ)のことの様です。驚きです。

 「布都御霊は記紀神話に現れる霊剣で、建御雷神(たけみかずちのかみ)はこれを用い、葦原中国(あしはらのなかつくに)を平定した。神武東征の折り、ナガスネヒコ誅伐に失敗し、熊野山中で危機に陥った時、高倉下が神武天皇の下に持参した剣が布都御魂で、その剣の霊力は軍勢を毒気から覚醒させ、活力を得てのちの戦争に勝利し、大和の征服に大いに役立ったとされる。荒ぶる神を退けるちからを持つ。」とあります。
 「経津主神(ふつぬしのかみ)は神武東征において建御雷神が神武天皇に与えた刀である布都御魂(ふつのみたま)(または佐士布都神(さじふつのかみ)、甕布都神(みかふつのかみ))を神格化したものであるともいう。 逆に『先代旧事本紀』では、経津主神の神魂の刀が布都御魂であるとしている。
 『古事記』においては、建御雷之男神の別名が建布都神(たけふつのかみ)または豊布都神(とよふつのかみ)であるとしており、葦原中国平定は建御雷之男神が中心となって行っているなど、建御雷之男神と経津主神が同じ神であるように書かれている。 布都御魂を祀る石上神宮が物部氏の武器庫であったと考えられていることから、経津主神も元々は物部氏の祭神であったと考えられる。後に中臣氏が擡頭するにつれて、その祭神である建御雷神にその神格が奪われたものと考えられている。
 経津主神は香取神宮で主祭神として祀られているが、香取神宮と利根川を挟んで相対するように、建御雷神を祀る鹿島神宮がある。また、春日大社では経津主神が建御雷神らとともに祀られている。 これは香取神宮・鹿島神宮のある常総地方が中臣氏(藤原氏)の本拠地であったため、両神社の祭神を勧請したものである。また、鹽竈神社でも経津主神・建御雷神がシオツチノオジとともに祀られている。」

 伊達家は代々陸奥守護を務めており、伊達正宗の正室の愛姫は田村藩の一人娘で田村藩は坂上田村麻呂の子孫、正宗は幕府から得た外交権でスペインと通商交渉を結んで何を意図していたのでしょうか。支倉常長が秘めていたことは何だったのでしょうか。いよいよ大きな力が動き出すのかもしれません。
 
 夕暮れの中、最後の目的地、松島海岸の五大堂へ向かいましたが到着時にはとっぷり夕闇に包まれてしましました。結局、橋が閉鎖されていて五大堂に渡ることが出来ませんでしたので、海岸から柏手3回で失礼しました。後は急ぎ宿泊先の作並温泉へ向かいました。夜の交流会は密度の濃き世界でした。無事に1日目は終了できました。

 12日は快晴です。皆さん元気に定時に集合でき出発しました。目指すは宮城県南の丸森町の日本一の道祖神と言われる立石です。その高さ12.5m、周囲25mの大石で、その昔、安倍貞任(1050年ころ)が石上に立ったと言い伝えられ、周囲には弥生式土器も見つかっています。
 駐車場から山道に入ると、山は大伐採されていて、立石が山の中腹にすぐに見えます。登ること15分ほどでしょうか、その巨大さになぜここに鎮座しているのか不思議世界です。巨石に太陽が反射しています。あわ歌を歌いましたが石に反響する感じです。その時のお言葉です。

 「大きなことぞ 是よりは 大き身元の光を受け、この地に伝えて、気を大きく変え行きて、光を西へと発し行き 新しきを生み出す。(拍手)ずいずいずいと参ろうぞ。是より動く元と成られよ。(拍手)」

 「・・気を大きく変え行きて、光を西へ発し行き・・」とあります。北から西へ動くのでしょうか。昨日の石神山精神社でも「大いなる力となりて西に向かう。」とありました。
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 次なる目的地は駒場瀧不動尊公園ですが10分ほどです。「駒場瀧不動尊は約1100年前、天台座主の慈覚大師が奥州鎮護霊山寺を創建され、鬼門の守りとして浄地を選び、世の平和と人々の幸福を念じて激流岩をかこむ駒場ヶ瀧において自ら不動尊像を刻み滝上の岩窟の中に祀られました。」とありますが、霊山の鬼門の守りの地の様ですが奇岩、巨石が綺麗渓流の周りに沢山有ります。不動尊の対岸の巨石に面してあわ歌を歌いました。その時のお言葉です。

 「繋ぎて下され 大きなる光を、是より生み出す新しきへ向かう力と成し行く為に、此処より発して下されよ。そのゆうゆうゆうの光を。」
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 終わって美味しい昼食の弁当をベンチで取りました。長閑な時空間です。そして次なる目的地、霊山へ向かいます。山間の狭い道を進みます。県境を越えて福島県に入るとなぜか風景が少し変わります。あまり人の気配が無いのです。霊山子どもの国は除染作業中で閉鎖されていましたので、登山口駐車場に向かいました。雲に覆われた空は重く、寒々とした感じです。それを吹き飛ばすように霊山に向かってあわ歌を歌いました。その時のお言葉です。

 「皆々様には この山の発する大きなる力に触れて、それぞれの身をこの地としっかり繋ぎておかれませ。是より参る新しき時に大いに役立つ力なり。うつして参りて持ち行く時あり。心得なされ。」
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 次は南相馬市原町区へ向かいます。飯館村を通る道を進みましたが、無人の家がほとんどで、避難しているのでしょう、人の気配が全くありません。野良犬が数匹、野ざるが群れて目撃出来ました。何とも言えない風景です。しかし原町に近づくと自転車で下校する多くの中学生などが明るくいきいきしています。その違いの大きさに驚きです。放射能汚染に果たして自然界に境界を引くことが出来るのか疑問です。
 高倉文殊堂に到着し、本堂前であわ歌を歌いましたがその時のお言葉です。
 
 「是より この北の地は深き思いの長(おさ)と共に、小さき集まり、大きな繋がり持ち行きて、この国の中心より離れ行き、新しきを作らるる。皆々様 思いは新しきへ向かうなり。あわ歌 歌わるる方々ご用意成され。大きなる活躍を祈ります。ありがたき。」
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 凄いお言葉の内容に皆で目を見合わせました。もうこれで今回の旅は終了で善しです。少し予定より早いですが懇親会場のSさんのだいこんやさんに向かう事にしました。Sさんはありがたいことにも今回の旅にも同行して下さっています。車に乗って発車しようとタコメーターを見るとなんと39999です。サンキュウサンキュウで凄いと驚きです。私の車のナンバーは999で、サンキュウが3つで桁が変わりました。今回の旅を導いた存在からのメッセージの様です。
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 だいこんやさんでの懇親会は皆さんにこの旅の感想をお話頂きましたが、縁ある方々の集いはとてもありがたく、実り多きものでした。そして陸奥天地開闢が出来たようです。やがてそれが形になっていくことでしょう。次は新しい世界を形作る楽しみです。
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 今回は後もう一つの成果があります。霊山で頂いたお言葉に「この山の発する大きなる力に触れて、それぞれの身をこの地としっかり繋ぎておかれませ。是より参る新しき時に大いに役立つ力なり。うつして参りて持ち行く時あり。」とありました。あらかじめ4月末に木内さん中山さんのジョイントツアーを決めていましたが私の企画内容で良いか確認頂きましたが、お二人とも了解です。4月末に丸森でミーテイングして、星の観察をして、山開きの翌日に霊山に登ることになりました。ご縁の方々是非とも集ってください。

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Author:仙台天命塾長
 大久保直政
http://genkiup.net/

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